ヤセ習慣が私を太らせてくれない【糖質依存日記】
糖質に依存する感覚を探り、糖質依存を防ぐor糖質依存を克服するヒントを得るべく、甘いものや糖質をなるべく摂る生活をすると決めて4日目になります。
4日目に私はミスをしてしまいました。食べなきゃいけない甘いものを、ついつい我慢してしまいました。
ヤセ習慣が私を太らせてくれない
私はヤセ習慣が身についています。この習慣により、太りやすい食事や行動を無意識に避けています。
とはいえ、今回は糖質依存について知るために糖質を多く摂ると決めています。今日は年末大掃除をして小腹が空いていたから甘いものを欲していたはずなのに、ヤセ習慣のせいで甘いものを我慢して食べなかったのです。取り組みを忘れてただけだろ、と言われたら何も言い返せないので言わないでほしいのですが、このことにより記事のタイトル通りのことを気づかされました。
どうして甘いものを食べることにブレーキがかかってしまったのか思い返してお話します。
小腹は確かに空いていて、用意していたみたらし団子やチョコレートなどスイーツは食べようと思えば食べられたはずでした。16:00ぐらいでしたか、それをふと思ったのは。
空腹時にいつも思うこと、「空腹の時間」を大事にする気持ちが働いてしまいました。ちょっと食べたいぐらいなら「食べない」を選択するクセです。例えみたらし団子やチョコレートが目の前に見えていても、この選択を自然にしてしまうのです。
今私は、甘いものを食べるべき、というダイエットとは逆のスタンスでものを言っていますが、食べたくても「食べない」を選択し空腹の時間を大事にすることが無意識に行われるヤセ習慣は、痩せたいとか太りたくないと思っている方には是非身につけていただきたい習慣です。本当に苦に思わずダイエットを行えている状態に、私自身も思っていた以上に強固な習慣が身についていたんだと思った次第です。
習慣は無意識によって、確固たるものになる
これはコントロールしようとしても難しいことなんですが、今回の件の私は無意識だったからヤセ習慣である「空腹の時間を大事にする」ことを、気づいたときには選んでしまってました。「無意識」というものがいかに良習慣を得ることに役に立ってくれるかの記事はこちらです。
「ダイエット」と言っているうちは「無意識」では到底ないでしょう。ダイエットを宣言し目標を掲げ日々努力するわけですから。しかしヤセ習慣は「無意識化」出来るんです。つまり、苦にならず太らない行動選択を継続出来るわけです。
ヤセ習慣を身につけるために、数値で目標を掲げるべきでない
数値で目標を掲げると、「意識」してしまいます。ダイエットという存在が自分の「意識」に明確に浮かんでいると、まあもしかしたら痩せられるかも知れませんが、「ヤセ習慣化」は出来ません。 つまり、「意識」してダイエットした結果にはリバウンドの危険が隣合わせなのです。
最後に
糖質依存を調べようと自分の体で実験しようとしたら、思わぬ角度からヤセ習慣の本当の姿が見えてしまいました。
しかしこれが私の本当に伝えたいことなのです。
甘いものは何時に食べても自然だからタチが悪い【糖質依存日記】
元来甘いものは好きな私ですが、一定の距離を保つことに気をつけて2年ほどになります。 特に最近はこんなブログを書いてるというのもあって、糖質を摂ることの危険さとか悪影響とかそんなことが気になるので、どちらかというと避けていたぐらいです。
しかしこのくらい距離を置いていた状況というのは、甘いものの依存性を感じ取るにはかえって好都合かも知れないと思い、実験をしてみます。
甘いもの依存してみる
真似して欲しくないことですが、やはり探究心も止められない。 現在の感じていることをまとめます。
1日目
きっかけは昨日のクリスマスケーキ6号ホールの1/3ほどを一気に食べたことで、これは昨日の記事に書きました。 ケーキを食べた何時間か後に、ケーキの味を思い出してしまい、「後を引くのは分かるがこんな時間差?」、と感じたということがありました。
2日目(今日)
昨日の神経を研ぎ澄ませて感じようとした後引く感から一日、無性にというほどでもないが、久しぶりに「ふと」甘いものを食べたいという衝動を感じた。 実験のために、セブンイレブンのピーナツチョコレートを買って食べました。ピーナツチョコレートやチョコレート自体はさほど久しぶりでもありません。2週間ぶりぐらいです。
明日からも甘いものを欲したら遠慮なく食べるようにして検証したいと思います。 昨日からの砂糖の量としても、砂糖中毒になるほどではないはずと思っていますが、現時点でそれまでとは違う感覚があることは確かです。
- ふと」甘いものを欲した感覚
- 感じたのは16:00くらい(今日は朝食6:50 昼食13:00 夕食20:00)
- 妙にチョコが美味かった
甘いもの依存がタチが悪い理由は、間食できてしまうから
糖質依存といっても、私が実験しようとしている精製糖依存だけでなく、炭水化物の形の糖質依存もあります。精製した小麦粉を使った食品です。 ラーメンなど麺類やお好み焼きなどの粉物、パンなども糖質依存原因の食品となり得るわけですが、それらより甘いものの依存の方が始末が悪いと私は思います。 それは、甘いものは間食向きだからです。 先ほど挙げた炭水化物系の糖質食品は昼食の時に「食べたい!」と思ったとしてもそれが昼食になるわけなので、 それが大きく食事量の増加にはつながらないし、3食のうちの1食をそれに充てるわけですから空腹時間の確保を脅かすことはないのです。 おやつとしてラーメン食べちゃうとかは言語道断ですけど。
一方、間食としての甘いものは当たり前の話ですがいつでも食べられるわけです。 これは3食の食事の他に摂るものになるので全体の食事量が増え、小腹がすいた時に甘いものを欲して食べてしまうと空腹時間が確保されなくなることになるわけです。 おやつとしての色が濃い甘いものは、クセになるとタチが悪く、やはり距離を置くべき対象であったことが分かります。
私は今日、16:00ごろ甘いものを欲した時にこんなことを考えました。
今後も毎日記録をつけておき、たまに糖質依存日記をアップしたいと思います。
ケーキを大量に食べたら食欲を抑える方法を見つけた
今日は妻がクリスマスケーキを作ってくれて、それが思いのほか大きくて、いっぱい食べてしまいました。
私は太ることがそんなに嫌なわけではないんです。痩せ習慣が続いているので、太るであろう食事に心理的に抵抗があってブレーキがかかっちゃうだけで、太ったからといって問題はないのです。むしろ今はBMIが標準の下側から外れているので(つまり健康診断で有所見とされる)ので体重は増えたほうが、健康診断の個人票上は問題が減ります。 とは言ってもケーキを大量に食べるなんてことなかなかないことで、心理的にはダイエットについてちょっと考えてしまうモードに入ってしまいました。甘いものは元来好きですので、たくさん食べたくなってしまったのですが、実感として糖質依存がどのように起こるか、後を引く感覚がどのように襲ってくるのか、ということを自らの体で冷静に実験しようとしている自分がいました。
まずケーキをあっという間にひと切れ食べて、妻からいっぱいありすぎるからもっと食べていいよと言われ、さらに大きめのひと切れを切り出してまたあっという間に平らげてしまいました。そこで味覚とか脳とかがどういう感覚で次の甘いものを欲しているか、監視したのです。
そこで気づいたのは甘いものは、舌に甘さが残り続けるということです。 この甘さが残っている状態だと、甘さに乗せてケーキ全体の美味しかった記憶が頭の中に漂っている状態です。これにより頭が「美味しかったー」って勝手に考えてしまう感覚があります。勝手に幸福感を反芻するような感じがしました。これが糖質中毒の状態なのかな…と思いましたが、思い返せば、美味しかったものは食べたあとはしばらくそんな感覚があります。甘いものとか炭水化物とかに限るものではない気がします。 しかし、しばらくしてまたケーキを思い出している自分に気づきました。ただ、また食べたいなーという感じではなく、味を思い出しているだけ、という感じです。食べた後にしばらく舌に甘さが残り続けている状態が勝手に思い出されている感覚が食後何時間か後にやってきて、これはほかの美味しいものにはない感覚かもしれません。
甘いものは、後を引く作用も確かに強いですが、後で思い出させる作用も強い。そんな感覚を今回の自分を使った実験では感じました。
しかし、私は甘いものが好きで、何も考えなければペロリとすべて食べられる人間だったはずです、もともと。 なぜか2切れで止まってしまったのは、理由があると思っています。まず一つは、痩せ習慣が身についてしまってブレーキがかかってしまったこと。もう一つは、食べる時に「血糖値がグン!って上がったんだろうなー」とか「糖質依存の感覚とか後を引く感覚ってどんなものかな」とか感覚に神経を研ぎ澄ませてしまったため、食欲が失せてしまったのです。
ここに食欲を抑える方法を見つけたことになります。
食事の際の体の中で起こっていることをできるだけ細かく想像する、ということです。 そのためにはある程度は知識が必要ということになります。例えば以下のような知識を頭に入れておいて想像に用いれば食欲を抑えることが出来るということです。
これは摂食抑制をするということですから、食欲を抑えるということだけでなく「食べる時間を選ぶ」「食べる食品を選ぶ」などといった食事制限のための自らのコントロールのためにも使える技ということになります。
想像を、ダイエットに活かすというのは過去の記事でも言っていますが、やはり大事であることが自らの臨床実験によって分かったというお話でした。
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残業時間が減らない理由は宗教観にあるんじゃないだろうか
自由の国アメリカ?
アメリカが自由の国というのは人が自然に生んだ最大のキャッチコピーだろう。日本人は戦後、濃厚に外国文化に触れるようになり、自分らの文化との違いを目の当たりにしたとき、それを自由と表現してしまった。彼らが言うLibertyを自由と訳してしまった。それと同時に自分らには足りないものであると何故か錯覚してしまった。
Libertyは制約されないという意味が含まれている。これは奴隷として扱われない、ということを願った背景にある。
日本人は明治時代からLibertyを持っていたのだ。Libertyを意識したことが無かったのに外国文化に触れた途端Libertyを目で追ってしまった。側にいてなんでもない存在だったLibertyに恋をしてしまったのだ。
アメリカでは人間は最小単位で存在し、それが個
アメリカにおいてLibertyが生んだことは、無制約であり、これは自己責任を意味する。個人主義を強く意識すると、自分が所属する集団は集団としての意味しか持たない。集団は自分のアイデンティティとは切り離されたものであり、これが集団にとって個人のLibertyを確保している。しかし、言い換えると集団は個人を助けてはくれない。個人もほかの個人を助けてはくれない。
競争社会に勝った人には希望が待っている一方、落ちぶれた人はとことん落ちぶれて、心が育たない人はとことん育たなくて、極端に凶悪化した犯罪が生まれる。個人は原子として存在し振る舞う。
日本の個は、繋がりを無視できない
対して日本においての話をする。
日本は集団主義である。手を取り合い、落ちぶれそうになった人を救おうとする。心を支えようとする人がほかにいて、心の健康は底上げされ犯罪が極端に凶悪化することは少ない。自己責任の考え方は連隊責任や原因自分主義という形で現れる。他人の瑕疵を自分の責任と思うわけではないが、自分がどう振る舞っていたらその瑕疵は防げていたか、を考える。集団はそう考えるから個人を救おうとする。このように振る舞うときの心の動きとして日本人のコミュニティ感覚は他人とどこかで繋がっているような気がしている。だから手を離せないし突き放せない。個人を原子として考えたとしても原子一つ一つを取り出すことは出来ず、なにかと結合した分子として振る舞う。
これらが宗教観に起因すると考える
日本人に宗教観を尋ねても疑問符が返ってくることは目に見えている。信仰する宗教を持たないと考えている人がほとんどだからだ。
しかし、初詣は行くし、葬式は仏教式で行わないと気が済まないしお墓参りをすれば何となく気持ちが落ち着く。神社では粗相をしないように気をつけ神体の前では姿勢を正す。日本人の心は神道と仏教に染まっている。
とはいえ仏教典やお経の意味も理解したこともなく、形式を仏教や神道に習っているということだけで日本人が仏教の考え方に染まっている、というのは乱暴な気がするだろうか。いや、個人というものの捉え方は、仏教そのものだと私は思うのです。
仏教においての個
仏教では一人一人の個を表現していない。自性がない、という言い方が正しいだろうか。AさんとBさんはそれぞれ体は違うもので脳もそれぞれのものを使っていて別の体系の中で思考し生命維持していて、別の個体のように思える。しかし、どこかで繋がっている。Aさんが何かを考え作業することがBさんには影響しているはずである。もしかしたらAさんが最初に何かを考えたのはBさんの影響かも知れず、Bさんは他の誰かのお陰で今日を生きながらえたかもしれない。人々を分けて分けて個として存在することは出来ない。つまり個人と個人の境界は曖昧なものと考えられる。そうなると個人を言葉で表現しようとすると難しくこれを、お経の中で聞いたことあるだろうか、空とか無とか曖昧な表現になる。
人と人は切り離して考えられない、ということは日本人全体の思考のクセであることは前述の通りで、仏教の心は日本人の奥深くに根付いているといえる。
これも一つのLibertyであったはずである。この仏教の心とは違う個人の考え方に触れた日本人がLibertyに恋して個人主義に染まろうとし、現代日本人のものの感じ方が独特のものとなっている。
残業時間が減らない理由
日本人の就業時間が極端に長い割に生産性はそれほど高くない。日本人のIQは低くはないはずである。
付き合い残業や他人のペースに合わせた時間配分になってしまう。自分の時間が自分の時間でありそれ以外の何物でもない考えられる西洋人と違い、自分の時間が空や無として他人の時間でもあるとどこかで考えてしまい、他人のために時間を使ってしまう。自分が残業時間を削れば他の誰かが辛い思いをする、そんなことが脳裏に浮かび、残業時間を長くしてしまう。日本人の潜在意識的な宗教観が働き方改革を妨げるのだ。
最後に
日本人の根底が仏教の空や無に基づいている限り今やろうとしている働き方改革は上手く進まないのではないかと私は思うのである。日本の政策は日本人の性質を活かして考えねばならない。
若者が使う意味を持たない言葉を危惧する
言葉が時代とともに変化するのは当然で、止めることはできない。 だから老人と若者が使う言葉に違いが出ても仕方がないと思う。
ら抜き言葉や「よろしかったですか?」などは確かに気になってしまうが、意味は伝わる。ちょっとした言い回しの違いが時の流れの中で起こり、馴染んでしまったため表現方法が変わっている。 それなら別段嘆くことではない。
しかし今、言葉に込められるはずの意味を考えずに使う若者が多い。
1.普通に
「普通に美味しいです。」などの「普通に」に本人が伝えたい意味とは違う意味が含まれてしまっている。本人が普通にという言葉に含めたい意味はない。美味しいですの意味を伝えるためにわざわざ語弊がある言葉を添えているのだ。
2.そしたら
上司になぜ報告しなかったことを責められた際に言い返す言葉として「今後は気をつけますそしたら」と発する若者が多いように思う。「そしたら」という、付ける必要のない言葉を付けるのだ。 上司に叱られなくても行動していなければならなかったことであるはずだ。それを叱られたことをきっかけに初めて条件が揃い、「今後は報告することになった」という意味が「そしたら」を付けたことによって込められてしまっているのだ。
若者が発する言葉にどんな特徴があるか
2つの事例を挙げたが、共通して若者は言葉に意味を込めて発していない。若者自身が意味を込めない言葉を用いるせいで、受け取る側にとって語弊がありニュアンスが捻れて伝わることにある。いや、捻れて伝わるのがニュアンスだったらまだ救われる。 真意が捻れてしまってはコミュニケーションは意義を失う。
若者はなぜ余計な言葉を付けて話すのかということを考えてみる。 彼らは言葉を語感で使っている節がある。過去に聞いた経験の中で耳馴染みが良かったり小気味よく口をつくものを選ぶ。 歌詞をなぞるかのような、誰かのドラマのセリフを復唱するような、そんな感覚だろうか。もしくは語感を飾る言葉を付けている、という感じかもしれない。
友だち同士で上記2例のような言葉で語弊があろうと、害はほとんどない。しかし仕事ではそうはいかない。連絡に語弊があってはいけない。 しかし若者が上司に親しみを込めて話したり談笑したりする場合に、若者言葉が入ってしまうことがあるだろう。このとき若者は自分らしさを語感や口調で表現しているように思える。ウィットによる会話のスパイスを入れるのではなく、語感を入れるという手法しか使わない(使えない)のだ。
そしてテレビや動画サイトなどメディアで発している言い回しだけで自分に響いた部分を会話に用いる、という言葉の吸収の仕方が多いため臨機応変な言葉のチョイスがなされず、決まりきった言葉が口をついて出てしまうということも想像出来る。
最後に
言葉の意味が変わることは時が流れれば避けられないことである。これは昔から起こり続けていることである。ほとんどの言葉はメディアから覚える。メディアが間違って使用していれば、人々はその間違った使用法で覚え、使ってしまい、いつしかその言葉の使用法や意味は変わる。
しかし、言葉が意味をなくすことは避けたい。メディアが言葉に意味を持たせず使っているとは考えにくいから、それを吸収する側の人間が語感を飾るために言葉を用いることで意味をなくしてしまうのだろう。 言葉は使って後世に伝えられているが意味を持たない言葉を使わずに後世に伝えたい。
今時、振り込め詐欺に会いそうになった人
会社の同僚で振り込め詐欺に合いそうになった人がいます。
最初に言っておきますけど、参考にならないくらい一昔前の手口の話なので、こんなベタなことに引っかかる奴も居るんだな、程度に思って読んでください。
でも時は、今です。2018年12月の話です。
詐欺の手口です。手口も何も…て感じです。ショートメールがきて、
「アダルトサイトの未払いがあります。今すぐ下記の電話番号に連絡ください。さもないと裁判です。」みたいな感じらしく、
それを見た38歳ぐらいのいい大人が!
即、電話したらしいです。
ヤバイ!と思ったらしいです。いい大人が!
まずここまでで嘘みたいな話に聞こえるでしょう?
でもホントに電話してるんですもん。
そして、今すぐ9万円振り込んでください。
と言われ、仕事中にしれっと「振り込み行ってきまーす」と言って出て行っちゃったんです。
それから数分後、彼は躊躇ったらしくATMの前まで行って戻ってきました。
そしてほかの社員にショートメールを見せて「ヤバイです。こんなショートメール来たことあります?」という風に聞き、詐欺まがいが発覚。
ということで、金額的被害は受けてないですが番号変更などを余儀なくされています。
もう一度言います2018年末の話ですこれ。8年ぐらい前の話のように聞こえますよね。
彼がいうには「いやあ、心当たりがあったので」ということです。
ほかの同僚がたまたまニュースでみたところによると、今でもこの手のワンクリック詐欺に騙される人はいるらしく今年ある県に8人だけいたそうです。ということは被害者は全国に1000人もいないでしょう。10万人に一人です、引っかかったの。
うちのしょうもない会社にそんな逸材がいました。
皆さんの周りにも、ここまでじゃないにせよ、少し高度な詐欺には引っかかってしまう人がいるかも知れません。
なので、身近な人にアンテナを張ってしっかり監視した方が良いと思います。ちょっとでも怪しい人がいたら。
特に親御さんはお年を召されて、思っている以上に判断力が低下し、詐欺と気付かないかも知れません。
親御さんと連絡をとってらっしゃいますか?子供と連絡をとっていないと子供の声を忘れてしまって、オレオレ詐欺に引っかかることもないとは言えません。
一度心配の目を親御さんに向けてみてはいかがでしょう。
【アメトーク】同期芸人くくりの面白さ
アメトークという番組では、「◯◯芸人」という企画の型があり、10人くらいのある共通点を持った芸人が出演しその共通点ならではのトークをする企画なのは有名だろう。◯◯という共通点でくくっている、という企画シリーズだ。
「◯◯芸人くくり」型の企画
アメトークが人気番組になったのには、この共通芸人くくりの型の企画が大きく寄与している。
◯◯に入る芸人の共通点とはこういうものがある。
- 何かに詳しいこと
- 好きなこと
- 性格・芸風
- 地元・実家に関すること
家電芸人やHUNTER×HUNTER芸人、人見知り芸人や実家が農家芸人など、喋りのプロが集まってその深い知識やあるあるネタ、独自のエピソードを披露する。それをMCがさばく。ある一方の分野に偏向した内容になりそうなものだが、演出とMCの絶妙なバランス感覚とMC側に「分野に疎いタレント」を一人配置することで、視聴者との距離が離れ過ぎることはない。
同期芸人というくくり
◯◯芸人はある分野に精通していたり変わった性質を聞き出せたりする面白さが人気なわけだが、一方で同期でくくるという放送回がある。
少々乱暴な共通点である。
芸事を始めた(養成所に入所した)年度でくくってしまうのであれば芸人は特殊性も努力も必要なくアメトークに出演できるということになってしまう。生き残ってさえいれば、だが。
そんな違和感を補って尚余りあるほど、同期芸人くくりの放送回は楽しい。
これは自分の経験に置き換えると、同窓会や友人の結婚式などで同期の仲間が集まったときの、安心と高揚が混ざった、おばあちゃんちの匂いのような、得も言われぬ郷愁感が思い出されるのである。
同期の芸人が集まって当然、敬語を使ったり気を使ったりする必要はなく、世の中の上下関係のしがらみなど忘れてしまう箱庭のようなものがテレビ画面のひな壇上に現れている気がするのである。
同期だけ集まったバラエティー番組の価値
少し前に、脳科学者の茂木健一郎氏が「今のバラエティーは上下関係の笑いに終始している。」と辛辣で賛否両論ある意見をツイートして話題に上がった。確かに同期芸人くくりの放送回を見ると上下関係から解き放たれた笑いの魅力に気づくし、アメトークでその貴重さを感じるということは、上下関係前提の笑いのあり方がいかに蔓延しているかということを物語っている。
もちろんこれは、上下関係ありきのバラエティー手法を否定するものではない。その緊張感が作るものが大事だったり、それを裏切ることに笑いがあったり、キャストを多様化するにあたって当然起こることである。
しかし、キャスト同士の先輩後輩など視聴者には本来関係ないことである。視聴者にとっては内部的な上下関係を鑑みて笑いのやり取りを見なければいけないのは実は無駄な一手間なはずである。
昔のバラエティー番組を思い返してみると、ドリフターズにしてもコント55号にしてもそのメンバー間に上下関係が明確にあるにも関わらず、画面上では互いに敬語は使っていない。我々は子供の頃、志村けんと加藤茶の立場は同等の親友みたいなものだと信じていた。しかし本当は志村は加藤に頭が上がらないほど尊敬と感謝の念を抱いている。
当時、上下関係は視聴者に感じさせないようにしていたのだ。
茂木氏はこういった箱庭を大事するバラエティー文化が、忘れられつつあることを憂いたのではないだろうか。上下関係を用いたバラエティーはつまり、視聴者の理解に依存した笑いなのである。
制作者の裏の事情を表に出してしまうバラエティー番組が主流となっていて、このことも関係してくるのだが当記事では話が広がり過ぎてしまうのでまたの機会にしようと思う。
最後に(なぜ同期芸人の放送回が楽しいのか分かった)
視聴者の上下関係理解が必要な笑いが主流なことに対して、同企画はそれを取っ払って見ることが出来るため、当人たちがリラックスしているのと同じように、見る側もリラックス出来るのである。視聴者の理解に依存されず、純粋な気持ちで見られる番組だから楽しいのである。
好きなものは好きと言うべき
自分の好きなものは世の中からなくなって欲しくないですよね。好きな歌手や好きな作家はずっと現役で活躍して欲しいものですし、好きなお菓子はずっと売っててほしいです。
自分の中だけで好きと思っていてもそれが当人側に伝わらなくちゃ、それが絶滅してしまうかも知れません。本人は歌をやめちゃうかも知れませんし、お菓子は販売中止しちゃうかも知れません。
本人は応援されないと続けるべきか分かりませんから、なんらかの形で好きを表現するべきなのです。
カールが販売されなくなるのを惜しむのは良いけど、買わなきゃ絶滅するんです。
好きを伝えることは、相手がより頑張ってくれて自分が好きなものがより良いものになるので、そういう意味でもなんらかの意思伝達は大事です。
だから私は「良い!」とか「読んでよかった!」と思ったブログには、はてブしたり、 多めに他の記事にもアクセスしたり、コメントしたり、ランキングサイトのバナー踏んだり、アフィリンクを踏んだりします。
大して変わらないかも知れませんが、好きなブロガーさんには続けて欲しいですから。
今日はライトにブログの話になってしまいましたが、以上でございます。
中国の技術革新にみる産業発展と社会成熟の関係
中国の技術革新は進む。しかしどうしても拭えない最新技術と未熟社会の違和感について書かせていただきたい。
この技術革新が進んでいることの背景、そして違和感の正体だ。
目次
目立つ中国の技術革新
キャッシュレス化
特に日本が遅れていると言われる、キャッシュレス化に関してはモバイル決済率は98%を占め、ほとんど現金自体を見ることがない。店舗を持たず手売りで飴を売っているおじさんですら、QRコードを胸にぶら下げて客にはそれをスマホで撮影してもらうという決済方法だ。キャッシュレス支払は顔認証で行うものもあり最新技術をキャッシュレス化に注がれていることが目立つ。キャッシュレス「化」という表現は適切でないかも知れない。キャッシュレス社会は実現済みである。
監視システム
顔認証システムとスマートメガネ、AI、ドローンなど最新鋭の技術を用いて政府は市民を監視している。街中をドローンが自在に舞う姿はSF映画の世界のようだ。ドローンの世界シェアもトップであり技術も圧倒的である。歩行者の赤信号を無視して渡った市民は監視システムにより顔を撮影され目線はつけられるとはいえ、大きなスクリーンで晒される。
必要は発明の母
以上の革新的な技術を用いられる背景は、その必要に迫られていることにある。
キャッシュレス化は、大規模な偽札業者の横行や汚染した紙幣の不衛生さを解消すべき行われたことである。
政府が監視システムを導入したのは、市民の社会信用情報を集めるためだということだ。市民個人の普段の行いに悪質な一面がないかを客観評価するために顔認証やAIを中心とした監視システムなのである。
国民全体のマナー含めたコンプライアンス遵守への意識が低いことに起因して、最新技術に監視させることに踏み切らざるを得なかったのだ。
日本で個人の社会信用を証明する情報など前科の有無と金融業視点での信用情報ぐらいのものだか、中国ではより多くの客観的な情報を収集する必要があるということになる。
社会の成熟と技術革新
やはり違和感を覚えざるを得ないのは、中国国民全体のモラルの低さと技術の高さのアンバランスさである。いやむしろバランスが良いのかも知れないが、日本人の私としては飲み込みにくい感覚なのだ。
国民のモラルの成長が技術の進歩に追いつかず、モラルの穴を技術で埋めようとしていることに悲しさを感じずにはいられない。
これは国民全体がシステムによる監視・管理下に置かれないと、その行動を制御できないという、現代人として恥ずかしい状況を露呈している。
技術革新と経済発展のタイミング
映画スターウォーズのタトゥイーンという惑星では、ギャングのはびこるスラム街に生物をはるかに凌駕した知能を持つドロイドが生活を支えている。中国の未熟社会の中にある最先端技術の違和感はこれに似ている。バランスが創作されたSFのようなのであるが、このアンバランスさは、世界の技術の進歩とその国の経済発展時期の関係に理由があると私は考える。
どういうことか説明したい。
世界全体の科学技術・産業技術は18世紀後半のイギリスで起こって以来、進歩はとどまっていないどころか2次関数的に急成長しているように思う。
そのイギリスの経済成長はもっとも早い時期に起こり19世紀は筆頭の経済大国であった。
イギリスは世界の技術革新を起こし、同時に経済成長を成した。
アメリカはどうだろうか。同国の産業革命は世界的には第二次のものであり20世紀に入る頃だ。19世紀中に経済成長を続け、20世紀前半にトップを勝ち取る。
アメリカは世界の技術革新を受けた後、自国の経済成長している。
中国は、18世紀後半のイギリスの産業革命から200年以上の間かけて世界中で産業技術が成長に成長を重ねた後である昨今経済成長を始めている。その分、経済成長を支える技術が充実しているのだ。
これが中国の技術革新が社会成熟よりはるかに先行して、その共存がアンバランスに感じる原因ではないかと思う。
監視社会の広がりは日本に危険をもたらす
確かに中国の監視社会は世界に先行しているが、日本が遅れすぎているという言い方も決して間違えていない。ここに日本の危機が潜んでいる。
テロリストの脅威に打ち勝つ意図がほとんどとはいえアメリカやイギリスも監視のノウハウを社会に導入しAIによる犯罪予測システムなど、個人が監視測定された情報で客観評価される方向に向かっている。
安全大国日本がこの点で出遅れることは予想に容易いわけだ。これにより各国で仕事をしづらくなった犯罪者が監視のゆるい日本を移住先に選ぶことも考えられる。
日本の成熟した社会が危険を招き入れる結果になりかねないのだ。
最後に
日本の古くからの文化が人の心を育てた。社会というのが人の集合だということから目を背けなくて済むのは日本の心が作る社会が心地よいからである。
しかし成熟した社会が技術の発展を必要とせず、発明の母である「必要」の力を弱めることにもなる。
幼い子が知識を吸収する原動力が「好奇心」であるように、未熟な社会は「好奇心」により技術を欲する。
社会の好奇心が技術を発展させる推進力というなら、日本こそ負けていないはずではないだろうか。
忘年会の話をするにあたり優先順位の話は切り離せない
忘年会シーズンであります。
もう毎週忘年会なの。みたいな「困ったテイ」のリア充自慢には、忘年会行ってないこっちが胸焼けします。
忘年会は各所属において行われるという感じになるので回数が増えてしまうんですね。
会社の部署、会社の同期、学生時代の同期、その他趣味の集まり、地域の集まりなど。
嫌なら行かなきゃ良いし行きたきゃ行きゃいいのでそれについて文句は聞きたくないのです。毎年話を聞いている印象では、嫌々行ってる人もいるように思えます。そういう人は自分の人生の中の大事な時間だと思ってください。優先順位をきちんと考えてますか?
目次
優先順位を考えないから飲み会に嫌々参加することになる
他に大事なことがあって、忘年会が大事でなければ断れば良いのです。
僕は余裕で断ります。余裕です。
本当は行きたい類いの忘年会もあります。僕は飲み会は大好きなのです。
が他にも優先すべき事があったりやブログ書きたかったり体がタバコ臭くなるのが嫌なので忘年会の自分にとっての必要性を考えると、必要ではないので断ります。
他の優先事項は子供の世話を妻だけにやらせるのが忍びないため、ということが大きな理由ですが、忘年会よりははるかに重要です。
様々な飲み会別優先順位
発表します。
忘年会<快気祝や合格祝など<歓迎会<新年会<送別会
解説します。
忘年会はかなり優先順位は低いです。意味がないとは言いませんが、意味づけが薄いと思います。恒例だからやる。やるものだからやる。そんな感じでしょう。「忘年」の意味が分かりません。
祝う類いの飲み会も優先順位は低めです。祝われる一人と祝いたい主たる一人にとっては大事だと思います。呼ばれていく側からすると重要ではないでしょう。呼ばれた時点で自分にとって必要でないと判断しなければなりません。
歓迎会は意味はあります。
ようこそおいでなすった。これからお世話になりますのでよろしくお願いしますの会ですから開催する意味は大いにあります。しかし、自分一人が時間を割いてまで行くほどかというと、他に時間を割くべき用事はたくさんあります。なぜならその会自体は行かなくてもそれ以降、これから宜しくお願いしますという気持ちは伝える機会はいくらでもあるのです。
新年会は確かに通例を守っているだけといえます。しかし新年をキリッとした雰囲気でお世話になる人と共に迎えるという民俗的な行事としてあるべきと思います。民俗的行事で祝いごとというとあまり機会がないもので、機会を大切にすべきという点で比較的優先すべきと思っています。
送別会は最大に優先すべきと思います。
中には、送別会より歓迎会を優先すべきという考えの方もいるかも知れません。これから続く付き合いは大事だが、言ってしまえば送別したあとは付き合いはない。どちらの関係が大事か。という考えも分かります。
送別会は最大に気持ちを伝える場だと思うのです。歓迎会は言ってしまえば歓迎対象のことなど知りません。歓迎すべき相手かどうか分からない状態での歓迎会ということになります。それでも今後の関係上は気持ちを通じ合わせる大切な場だろうとお思いでしょうかが、その気持ちちゃんと込められますか?本当に歓迎する気持ちを入れ込んで、これから宜しくお願いします、を言えますか?
それに比べて確実に、今までありがとうございました、大変お世話になりました、は気持ち込められますでしょ?
という判断基準により、送別会は行くべき。忘年会は行きたくなきゃ断るべき。という話でした。
最後に
物事に優先順位をきちんとつけて、取捨選択して行動しないと、時間がもったいないですよ。特に若い方に多いです、付き合いを大事にして自分の気持ちや時間を大事にしてない人。自分の所属する場を重視して自分の個を封じてしまう日本の典型的な集団観は時として自分の人生に立ちはだかってしまいます。それを切り捨てられるような判断能力を身につけるべきです。
「地元なら好きな芸人1位になれる説を検証」を検証
水曜日のダウンタウンの企画は本当に興味深いものが多い。
好きな芸人ランキングで、地元に近づけば1位になれる説。
地域タレントはその地域で人気が高い、ということはその映像だけでも見て取れたが、それだけではないように思えた。
回答者心理が純粋でなく、さらにアンケート調査方法の選択により導き出された結果のようにも思えるのだ。
目次
好きな芸人と聞かれて、すぐに思いつく芸人を答えている
これはアンケート調査の罠とも言える。好きな◯◯と聞かれて、好きかどうかを考えずに思いつくものを回答してしまう人が一定数いて、その割合はかなりの物と思われる。
全国での調査ではサンドウィッチマンが圧倒して1位に居座っているが、この1位であることが次のアンケート調査で更に2位を突き放す結果を作る。1位である印象から、アンケートに答える側がすぐに記憶から呼び出すことができ、回答に乗りやすいのである。これが議員選挙でも起こる。野党が与党の座をなかなか奪えないのはこのジレンマによるとも考えられる。
アンケート調査方法による結果の偏向の可能性
また、同番組の調査の様子を見ていると街頭で声を掛けて聞き取っている(演出かも知れないが)。これは脳のキャッシュメモリにある芸人名を言うだけの回答となりやすい。さらにカメラを向けられて答えているので匿名性がないため純粋な回答にはならないかも知れない。しかも田舎での調査であるため視聴者が薄々とアンケートの意図を汲み取ってしまっている可能性もある。同じ人にインターネットで住所を明かさない匿名調査をしたら大きく違う結果になる可能性が充分ある。
と以上のように結果が純粋でない可能性はなくはないが、この検証自体の興味深さは捨てたものではない。
以下のような単純なことを思い出させる。
アンケート回答はそもそもアウトプットである
知っていてもどんなに好きなものでもアンケートで回答さえしなければその手のランキングに影響するわけはない。受けた調査に対してアウトプットしない選択肢だってあるし、状況的に心情的にアウトプット出来ない場合もあるだろう。
どんな知識をアウトプットするのかというと、狭いキャッシュメモリの中からすぐに呼び出せるものを選ぶことになる。
この時に呼び出される芸人名は
- テレビなどでよく目にする芸人
- ランキング上位の芸人
- 普段から応援している純粋に好きな芸人
- 印象深い芸人
といったところで、キャッシュメモリの上位部分に置かれている。印象深い芸人の中にはイレギュラーな事実も含み、例えば同じ大学卒だとか同性同名だとかたまたま見かけたことがあるとかそういうものも含むが、地元が同じや近いという事実は、芸人が巣立った経験がない田舎なほど印象深い。そういった地方の人々のキャッシュメモリの上位にあるはずで、調査に対してアウトプットを選択するに値するだろう。
そこにきて更に、調査における地域という条件だけを固定して他の条件を無作為とした調査は、当然地域がもたらす印象深さの条件だけが強く出るので、地元が近い芸人がランキング上位となるのは当たり前ということになる。
最後に
ランキング結果や検証内容は興味深いのだが、プロセスを考えてみると意外性はない。
とはいえ考え抜いてみる面白さを教えてくれる良い企画である。
大統領夫人は政権に関係ないのに何故メディアにあんなにも露出するの?
日本の首相夫人に比べよく露出している。
脚の話ではない。なぜメディアに登場する必要があるのだろうか。さらに頻繁に公衆の面前で演説のようなことまでしている。
日本では首相の夫人がそんなことをするなど考えられない。首相夫人が公衆の前に出てくるのはアメリカ大統領や外務大臣その他と会う機会において相手の出方に合わせるためであろう。
なぜアメリカ大統領の夫人はメディアに露出するのが普通なのか。
政治も民族学も全く詳しくないが、考えてみたい。
日本と西洋と幼いころからの男女観や個人観を考えてみる
日本人が、個人でつながることの希少さ
人間対人間が、場でつながるか個人と個人でつながるかというのが幼少の頃から違うように思う。
日本では仲良し5人組!のように人の集団をカテゴライズする。誰かがこの5人以外何人か加えて一緒に行動しようというのは勝手にはしにくいのだ。集団の中の自分を大切にするため、個々の大事な人であってもその集団にはカテゴライズされない。さらに日本には同期とか同窓とかそういう同カテゴリを大切なものとして扱う節がある。同期であるだけでそこに心のつながりが薄くても相手を大切に思ってしまう。
仲良し5人組の中の一人が、他の仲間と面識のない彼女をつれてきたら日本人の正直な気持ちはどうだろうか。なんだこいつの大陸的発想は!?と敬遠してしまうかも知れない。
こういうことから、日本の感覚での人の評価の仕方は個人に対するものから外れる
パーティーの場での違い
パーティーで、西洋はカップルであることを重要視する。そのパートナーがその宴の場において面識があるかどうかは全く関係がない。そのパーティーの場に対するカテゴリ意識が薄く個人の集まりという捉え方である。
日本は全体の場になじもうとする。男同志の友達でくる場合も多い。パーティーの場がどういう位置付けかを考えて、誰と行動を共にするかを決める。なんなら配偶者を連れて行くかどうかを他の参加者に事前に打ち合わせたりすることすらある。場の調和を重視しそこから外れることを嫌うので、行動基準の付き合わせは欠かせない。
西洋は組織としての調和よりカップルであることの方が重要なのだ。
個人として扱う。所属として振る舞う。
だから西洋では個人の所有するものが組織に必要かどうかではなく、含めて個人そのものとして扱う習慣があるのではないだろうか。
まとめ
個人をその所有する家族も含めて評価する西洋の習慣のため、政権とは関係ないとはいえ大統領と密接な妻は露出するのが普通であり、むしろ求められる、と考えられる。