「味の向こう側」を発見した麒麟田村氏が残したダイエットのヒント
低糖質ダイエットについて今の時点であまり詳しくなくて申し訳ないんですが、このダイエットをしている人には有名なことなのかもしれません。
肝臓による糖新生について
まず血液中のブドウ糖を肝臓でアミノ酸などにに変えて蓄えるわけだが、空腹が続いた時にアミノ酸などをブドウ糖に戻す作業をして血糖値をあげてくれます。これが糖新生です。
糖が余ったら蓄えて糖が足りなくなったら貯蔵庫から出してくると。
麒麟の田村、幼少期の貧困エピソード
貴重な米を食べるのにすぐに飲み込むのはもったいないと思った田村兄弟はずっと噛み続けてみた、という話は有名でしょう。
噛んでいると甘みが増してくるのは、唾液によって炭水化物がブドウ糖に変わるから当然ですが、一旦甘みが引いた後も噛み続けるとまた甘みが増すということを嬉々として話していました。
驚きです。口の中で糖新生が起こっているのです!彼はこれを味の向こう側と呼んでいましたが、味の向こう側とは糖新生のことだったのです。
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ご飯を噛み続けようという発想になるほどの飢餓状態ですから、体の中での血糖コントロールは普通の状態ではないでしょう。
飢餓状態で糖新生が起こり、それでも糖が不足している状態かも知れない。ピンとくる人も多いと思いますが、血液中の脂肪が分解されて現れたケトン体がエネルギーとして使われている状態と考えられます。
つまり糖質をエネルギーとする状態ではなく脂質をエネルギーにするモードになっている。
一般に落とし込むと
飢餓状態という言い方をしていますが、長めの空腹状態とほとんど同じ意味でいっています。つまり空腹の時間を大切にしているとケトン体が現れ糖質を取らずして脂肪を燃焼させるモードに入ってくれるのです。痩せる体質と言っても良いような状態です。
田村少年が見つけた人間の潜在能力
臨床心理学者のユングは自分の心を深く深く探り考え抜き、人の心を分析しました。自分を徹底的に省みるという、自己を臨床とした分析を行ったのです。
田村少年も自分の体、特に味覚ととことん向き合ったのです。噛み続けたご飯から2度目の甘みが現れるとは誰も知らないし考えた人もいない。それをとことん自分の立てた仮説に向き合うことに決めたのです。自分のまだ見ぬ味覚の潜在能力にかけ、自分の感覚の奥底までを探り抜き、とうとう味の向こう側を探り当てたのです。これは味が発生することを見つけたんじゃありません。人間の能力を見つけたのです。
味の向こう側は糖質のない甘味です。本当に深く深くまで探し求めた甘みは砂糖や炭水化物によるような血糖値を直接あげるようなものでなく、食の喜びだけをもたらすものです。自らの潜在能力に賭けた人間にしか感じられないものなのです。
この時にエネルギーとなるのはケトン体でしょう。つまり、極限の貧困状態の中でケトン体を味方につけ、戦っている相手であったはずの空腹までも味方につけることに成功した田村少年の、自らの体を用いた臨床実験は今でもダイエットのヒントとして活かされているのです。
最後に
人間の体は飢餓に強い。飽食に弱い。
今一度、お腹一杯に食べる必要性が果たしてあるのか、みなさん考え直していただきたい。
被害者意識の強い人が損していること
悲観的というか被害者意識というか、自分だけが損をするという感情を持つ傾向がある人がいる。
意識を被害者側に置くかその外側に置くか2パターンある
損か得か運が悪いか良いかは、確率的にはさほど変わらないはずだが、そう発想する人は周りからもあいつは運が悪い、と見られがちだ。
一方で自分だけが損だという発言は一切口から出てこない人もいる。これが私なのだが、どうしても悲観的になれないのだ。自分だけが被害者と思えないのだ。
後者(以下Bタイプとする)はすべてのことは自己責任だと思っている人間である。突き詰めて考えると他人に責任を置いたり自分が100%被害者という結論にはどうやったって至らない。こういう論者なのである。
各タイプの振る舞いの違いはこう
例えば自分が乗った電車が突然の落雷の影響で停電し発車できない状態になったとする。
自己責任タイプの発想
Bタイプの人間はこうである。
みんな不便な思いをしているんだから我慢しよう、という発想になる。自分だけが被害にあったという捉え方をしない。みんなが等しく被害者であるという意識であり、その中心に自分を置こうとしない。この被害には会わず無事に帰れた人もいるが、その被害者の中に自分がいたことは何の意味も持たない。そもそも電車という交通機関を使ってる以上こういうことはあり得る。これが嫌なら他の交通機関を使えばいいことである。たかが数百円の運賃しか払っていないというのにガタガタいう気になれない。駅員さんはこんな大変な時にクレームを言ってくる客への対応は本当に大変だけどご苦労さまです。
被害者意識タイプの発想
一方前者(以下Aタイプ)は、なぜ今なんだ。なぜ俺のときなんだ。という発想になる。被害に遭わず帰れた人がいるのに不公平だ。移動するための数百円を払っているのに移動出来ないなんて債務不履行だ。あの駅員に何時に復旧するか聞きに行こう。そして電車見合わせなう的な被害者意識ツイートをする。
影響は数千人に及び本当に必要な対応に追われている駅員に対し、自分の都合で手を止めさせることが平気で出来るタイプだ。
ちょっと(かなり)個人的感情が滲んでしまったが、AタイプとBタイプは抱く感情が明確に違う。
現象に対して捉え方が違う、というのは以下の記事でも面白い事例を挙げている。
被害者意識の強い人が損していること
加害者は自分
事象を事象として捉えるか自分の被害と捉えるかは自分次第なわけだから、言い換えれば自分が自分に加害しているわけである。
人のせいにしがち
事象を被害者側として捉えてしまうので、自分の非を真っ先に考えることが出来ない。相手の非を探し、相手のせいにしてしまう。これは信用を失う行動である。
隣の芝生が青く見えてしまう
被害者意識は妬みの気持ちにも現れる。妬みは物事をフラットに見ることが出来なくなる原因で、さらに自己肯定感が薄れることにより精神的苦痛に変わる。
他人から軽視される
自分を被害者として自覚して物事を話すため、周りの人からは被害者の側面を多く持った人だと思われる。つまり運が悪い人間だとか失敗の多い人間だと思われ、価値が低く見られる。
最後に
すべてのことは信用を失う原因を作る。気づかない内に自分の出世を妨げるのだ。
人のふり見て我がふり直さなければれならない。自分のことだと思って行動を見直そうと思う(とすら被害者意識サイドは思わないのだろうな)。
三日坊主は日々の選択疲れによって現れる
すごく単純なことなのだがよく考えたら不思議なことがある。
目次
なぜ心に決めたことが揺らぐのか?
おそらくほぼすべての人に当てはまると思うが、例えば
ダイエットをしようと心に決める。そこで人生の道の上で毎日2kmジョギングをするという選択肢を選びそちらへ進む。 ここでは間違いなく道を選んで進んでいるのである。 過去、3日ほどで挫折することもあっただろう。私はあった。 間違いなく選んで進んだ「毎日2km走るという道」だったのに、なぜ今自分が立っているところが「走らない道」に変わっているのだろう。何度も言うが間違いなく歩いていた道はそれだったはずなのだ。 実は「2km走る道」選ぶふりをしただけだったのか?「2km走る道」など無かったのか?
時が経ち道を歩むとなぜかその道の名前が変わっている?
ああ、実際に道路を車で走っている時、そんなことよくあるじゃないか。乗っている車線をそのまま進んでいたら分岐していることに気づかず17号線を走っていたはずが16号線に乗ってしまっていた、という具合のやつだ。
気付いていなかったがまた「2km走る道」と「走らない道」への分岐点があってその選択をしていたのだ。
道を選択するのは一念発起した一回だけではない
何かを始めようとしたときに自分で選択肢を用意したが、そのときは一回限りの選択肢のつもりだったはずだ。しかし現実は毎日分岐点が現れ選択肢を突き付けられる。 なぜそれ以前は選択肢は現れなかったかというと当然自分で設定していなかったためだ。選択肢が現れなければ迷うわけもない。「2km走る」ことなど考えることもなく、毎日「走らない」ことを続けられたのだ。
対抗する選択肢がなければ毎日続けられる、はず?
「2km走る」しか選択肢がなければ毎日走るだろう。最初の日に「毎日2km走る」を選択したのに毎日「走らない」という選択肢を自分で用意し、その二者択一をするという愚かなことをしていることに気づく。 「走らない」は選択肢として用意しなければ良いのだ。
とそうは簡単ではない。 「走らない」選択肢も必要だからである。体調や天候が悪かったり、ほかにやることが出来るいう理由で中止しなければならないこともある。「走らない」選択をなくせないことが、迷わせる理由である。これこそが「走らない」ことの言い訳を許してしまう原因であり、三日坊主がこのとき顔を出す。
習慣付けを自分に邪魔されないための心得
言い訳を封じる
「走らない」言い訳を封じるためにはこうする。「走らない」選択をする条件を決めておくのだ。 例えば 5mm/h以上の雨、降雪時、0℃以下の気温、32℃以上の気温、21時以降、37℃以上の体温 仕事終了が19:00以降
などを条件として予め決めておきこれに該当しなければ「2km走る」を選ぶ。
習慣付くとは選択に必要なエネルギーが少ないこと
16号線を進んでいて分岐に差し掛かる。1日一回やってくる例の分岐点だ。そこで「2km走る」方に進むには車線変更しなければならない。道なりに進めば「走らない」。最初のうちはこれが毎日続く。 しかし慣れてくると、道なりに進むだけで「2km走る」ことが出来るようになる。 無意識に無頓着に生きているだけで最初に心に決めた道を進むことができるようになる。
習慣付くと楽に選択できるようになるのだ。
ちなみにスティーブ・ジョブズ氏がいつも同じ服を着ているのは余計な判断疲れを避けるためであることは有名かと思う。日々人は数え切れないほどの判断を重ねている。選択肢が一つしかないことが一番だが、選択肢があってもその都度の判断基準が単純であれば選択に疲れることもなく迷うこともないのだ。
まとめ
- 何かを始めようとしたときの選択だけで道は続かない。
- 何かを始めて毎日続ける=毎日「やる」「やらない」の選択肢が待ち受けている。
- 正解肢を選ぶことを単純な判断基準で行う。これが判断疲れをなくし、言い訳の余地をなくす。
何かを習慣づけたいときにこんな単純なことさえ気をつければ三日坊主にならずに済むという提案でした。
妊娠糖尿病から妻を守れ、夫たち
妊娠中、胎盤からインスリンの働きを妨げるホルモンが分泌され、血糖値の上昇が抑えられなくなる傾向になると。特に後期に血糖値コントロールがうまくいかなくなってくるようです。
それもこれも、赤ちゃんに与えるエネルギーである糖質を無駄にしないためなわけです。この作用が逆に赤ちゃんやお母さんへの悪影響になってしまうジレンマが起こります。絶妙なバランスで成り立っている妊娠中を高血糖が襲うという鬼畜の所業。
リスクの高い出産の方はなおさら気をつける必要があります。
目次
妊娠糖尿病になると
- 高血圧症を併発
- 羊水量異常
- 胎児に対しては流産、巨大児、心臓肥大
さらに妊娠糖尿病は出産後に治癒しても、中高年になってからの糖尿病を発症する可能性があるというのがタチの悪いところ。
糖尿病リスクは経産婦全体に広がる
ということで悲惨なことに経産婦であるだけで糖尿病リスクを持っているということになります。ということはほとんどすべての女性じゃないですか。
糖尿病患者は1千万人にも登るというが、その一部はこういった避けられない糖尿病ということです。
夫ができる配慮
出産という大仕事をやってくださった奥様方に、それに起因して健康を脅かされたんじゃ気の毒過ぎるので、世の夫達としても奥様の糖尿病への配慮を以下のようにお願いしたい。
定期的な検診の勧め
高年齢出産の人や肥満気味の人は特に注意。ママさんたちは家族のことを優先し自分のことを後回しにしがちです。定期的に検診を受けるよう勧めましょう。
運動量低下を警鐘
妻を散歩に連れ出す!これだけで運動ぐせは付いてくると思います。また、出かけにくくなる子供の幼少期は意識して子供を預かり、奥さんには好きに出かけてもらって運動する機会とストレス発散の機会を作りましょう。
ロコモ対策としても、気にしてあげた方が後々になって夫が楽です。
糖質摂取量の監視
甘いものぐせや炭水化物ぐせは自分で思っている以上にひどくなっているもの。自分では気づかないわけだから言ってあげましょう。ちょっとチクっとした言い方になっちゃうかも知れませんが愛ゆえ。
最後に
なかなか失礼な気がして言いづらいことばかりですが、妻の健康を気遣うのも夫の役目。子を産んでくれた妻に最大限の敬意を払いながら、生活習慣が悪化しないよう見守りましょう。
初心忘るべからず【ブログ】
あの頃は赤ちゃんにミルクをあげるときに飲んでくれてる顔だけでも嬉しかった。
なのにその顔も今はあまり見ていない自分に気づく。
初心を忘れないと幸せである。初心のころは大変だったが、辛いとは思わなかったから。
ブログも初心のころは難しくて大変だったが嫌だとは思ったこともなかった。今でも嫌だと思うことはないが楽しいという感覚は忘れそうだったりする。忘れまいとしないと忘れてしまいそうだ。
私は割と長く楽器をやっていた。20年ほどだ。最近敢えてやめたのだが、楽器をやっていたときの心得はこうだ。
楽しんでやることが大事で、それしか大事じゃない。そのために初心を忘れないこと。初心のころは自分になんのスキルもなくても楽しかったはず。スキルをつけた結果楽しさを忘れちゃったらなんの意味もない。初心に帰ることは楽しさを思い出すことだ。
はてなブログユーザーにしか分からない話で恐縮だが、ちょうど最近「おすすめブログの新着」として私は出てこなくなってしまった。これに取り上げられるようになったときは、表面の50件に浮かび上がってる間が勝負で、この時間にいかに人目にふれるか、というのを考えいろんな時間帯に投稿をするのを試してみたりしたものだ。ありがたいことに投稿する度に大量に読者様が増えて毎日嬉しかったものだ。今は違う方法で人目にふれる努力をしなければいけない。
自分の記事がどうやったって人に見つけてもらえない最初の1ヶ月くらいを思い出し、初心を忘れると小さな喜びも忘れるんだと思い知らされている。
おすすめブログの新着に出なくなったおかげでアクセス数が増えないことや星が増えないこと、読者数の伸びが悪いことにも気にならなくなった。この無頓着が継続をもたらすのかも知れない。ダイエットの継続は無意識に判断を任せることによってなされる、という記事を書いたことがある(こちら)が今自分の言葉を痛感せざるを得ない。もちろん見てくださっている方には感謝しております。200人を超えた読者様ありがとうございます。
だから純粋に楽しめるようになった。
どうやら第2ステージが始まったようだ。
どうせなら健康アプリを使って、意識が数値化される気分になってみる
生活習慣病予防のためには自分の生活習慣を把握していなければなりません。これはそう簡単なものではありません。
自分がどの程度運動不足なのか分かっていないと、自分が習慣病やロコモを引き起こすリスクがあるか掴めないのです。
どうせスマホ持ってるなら健康アプリを使うべき
スマホの健康管理のアプリ、使ってますか?インストールして色々な前情報だけ入力して、あとはなるべくスマホをを持っておくだけで自分のデータが蓄積されていきます。何もしなくても蓄積されるデータだけで充分だったりします。
私が使ってるのはiPhoneにデフォルトで入ってる「ヘルスケア」というやつでして、勝手に収集されるのは歩数と歩いた距離と歩いて上がった階数だけですが、生活習慣病やロコモになりやすいかどうかの指標にするのにかなり有利です。
休みの日と仕事の日とどのぐらい運動量が違うのかなんとなく分かるだけでも、自分の普段の習慣の把握が一つ増えたことになります。
実際、生活の中で使って比べてみる
通勤時になるべく運動しようと意識した場合に、どの程度運動量がちがうか
例えば何も意識せずエスカレーターを使用していた日に対して、
なるべく階段を使ってみるように意識した日がどのぐらい運動量が違うか目に見えたほうがやる気が出ると思います。
ちょっと私やってみたんですが、
- エスカレーターがあったらエスカレーターにのる。
- 極端な運動はしない(4階以上をエレベーター使わないとかそんなことはしない)。
これをやってみる日を5日作り、意識しない日と比較すると、平均で
- 歩く距離500mほど
- 歩数は200歩ほど
- 上った階数は4階分ほど
増えました。これはほんの例ですが調べてみないとこういう違いがあるなんて分からなかったし、健康の為に意識したことが数字に現れたらちょっとした運動も続けられますよね。
もっとちゃんと使えば
体重や体脂肪率や血圧など測った数値をアプリに入力し、自分の運動と体重の変化がグラフかしていけばもっと役に立つでしょう。いろんなアプリがリリースされてるし、体重計とスマホを連動させられるものなら入力すら必要なく日々のデータ確認が出来ます。
だからエスカレーターじゃなく階段使いましょ!ということを言いたいわけではないのですが、ちょっとした努力を目に見える形にする工夫でした。
ダイエットのために空腹の時間を大切にしよう
おやつのだらだら喰いは何故行けないのでしょうか。
空腹の時間を大事にしていないことになるからです。
間食は基本的にはオススメしません。これは昼から夜までの間が7時間ぐらいあるでしょうが、この空腹時間を利用し体には代謝に専念してもらいたいからです。
空腹時の代謝の上がり方
代謝モードに入るスイッチは血糖値が下がる
ことにあります。
血液の中の脂肪酸の濃度が空腹時にマックスになります。そこで筋肉や肝臓は脂肪酸をエネルギーに変えます。
空腹時間が長いと脂肪細胞のホルモン感受性リパーゼが活性化して脂肪酸をエネルギーに変えます。
このように空腹が代謝チャンスなのです。
では食後のデザートはどうなのだろうか。
間食よりは100倍マシでしょう。100倍マシって言ったって100倍食べて良いわけじゃありませんよ。
血糖値上昇は空腹時に打ち込むよりは抑えられると思います。
どのように間食をなくすか
おやつをやめよう!と言ったってすぐにやめられるわけではありません。いや、無理してキッパリやめられる人もいるかも知れません。しかしこれは一番危険なパターンです。
急にやめても、そのおやつを食べない生活は一生は続けられないのです。なぜなら習慣化されてないから。
習慣化を目指して進めていかなければなりません。
無理をすると、いつか破綻してしまい、心はあきらめ側に偏ります。これが自分の失敗体験として残ってしまいます。自分には間食をやめるということが叶わなかったと、無駄に自信を無くす結果を残してしまいます。
おやつをやめるのは無理と思うならなおさら、少しずつ減らしていくということが大事です。
減らすための第一歩をここから紹介します。これならきっと出来ます。
間食を無くすための行動
空腹感を良い想像や悪い想像で乗り越える
間食をしてしまっている人はそういう習慣になっています。その習慣を違う習慣に変える必要があります。
今の習慣 | 間食する |
これからの習慣 | 空腹にしておく |
この右上の欄には「間食する」という習慣が記入されています。意識してほしいのは、「空欄」ではなかったということです。
間食しない習慣に変える際には、我慢するという時期がやはり必要です。つまり空腹感に耐える必要があるわけです。
耐えるときには、想像力が助けてくれます。
お腹が空いて口寂しくなったら
空腹=大事な時間
と考えます。
この時に血糖値をはね上がらせたらインスリンが頑張りすぎちゃって脂肪細胞に糖質を持っていっちゃう!と考えます。
ちゃんと毎回考えるのです。
ちゃんと代謝するために空腹時間を維持しないと!
何日か続けると、次のような感覚になってきます。
空腹=なんとなく嬉しい
空腹=良い調子だ
こうなると心から空腹を大事なものと感じることが出来ます。空腹は絶対に訪れるわけで、それに気持ち良さを見出せればめちゃくちゃ強いです。まだまだ習慣づくまでは時間がかかるかもしれませんから油断はなりませんが、順調です。
飲み物でごまかす
カロリーのない紅茶やコーヒーなどで空腹をごまかします。体が冷えないよう気をつけながら、飲み物で気を紛らわせる方法は結構効果があります。炭酸水も強くおススメします。
ポイントは空腹感が強くなる前に飲む。これです。
どうしてもやめられなければまずは時間を決めて間食
何度も言うように無理して急ピッチでことを進めようとしても習慣化は出来ません。間食するなら時間を決めて。15時なら15時に食べ始めることを自分に課します。
今まで例えば昼前に我慢できなくて食べちゃっていた人も、ちょっと待てば食べていい時間が確実に来る、ということを糧に我慢出来るはずです。
この時間だけは守るようにして、量は最初のうちはあまり考えなくても良し。
これで15時までの空腹時間は確保しました。
これを続けます。いつまで、と決めるのはお勧めしません。15時までの空腹時間があまり辛くなくなったら次のステップへ進みましょう。ここを焦っちゃダメです。
「間食時は急に血糖値が上がって、糖質を脂肪細胞が受け取っちゃうかもなー。でも15時までの空腹時間は確保できたな。」と想像してください。
■次のステップへ
少し遅くする。15:30にする。
時間をきっちり守るということを言いましたが、色んな都合があるので実は時間を守るのってちょっと難しいはずです。
どうせ前後するはずなのです。
これを逆手に取り、少し遅くします。
「お昼からの空腹時間をさらに確保したぞ。でも空腹時に血糖値ぶち込んでることは一緒か…。しかも夕食までの空腹時間があまりないな。」と想像してください。
これ以上は遅くすると夕食の時間がずれこむという最悪の事態を招くので、このへんにしときましょう。
ここからは量を減らす工夫をします。
工夫といっても、大袋をやめて小袋に分かれてるものにしたり、量を買い揃えないようにしたり、おやつ自体を目に入らない場所におくとか、ゆっくり食べるとかそんなのです。量がもの足りなくても夕食までもう少し、という逃げ道を作っておきます。少しずつ減らしていくと、ある日間食の必要性を感じなくなります。
気持ち良い空腹のまま夕食の時間に突入できます。
こんな感じの間食のない習慣を身につければ、あとは普通に生きているだけで痩せていきます。1年かけて2kg減、2年かけて4kg減、そんな遅いペースでしょう。でも下手に頑張り過ぎて2年で3kg増なんてケースもよく聞きます。それより効率的でしょう。
まとめ
- 間食をやめて空腹という代謝・燃焼の時間を大切にしましょう。
- ゆっくりのペースで間食を方向に持っていく。
- その時に大事なのは良いことも悪いことも想像すること。
建設業界の会社の話【闇注意】
会社と社員の関係が良好でない場合、お互い成長し得ないだろうな、と思ったことを綴らせてください。サラリーマンの愚痴に近い話であり、日記のつもりで書かせていただきます。 暗いサラリーマンあるあるだと思って読んでいただけるなら共感だけしていってください。
うちの会社は古臭い建設業界の会社である。
会社から部下へ大事な連絡はない
部署の地方拠点が出来ることとか、外国人実習生が何日に入国するとか、 人事異動がどうなるとか直前まで聞かされないことは数えられないほどだし、中途の新入社員が2人も入ることを当日まで知らされないのだ。
会社は報告連絡相談を重要というし、私個人もそう思う。 しかし上記のような会社の振る舞いを見ていると、報告連絡相談を大事なものと考えているとは思えない。
さらに、賞与査定の面談をして感じたのは、上の人は社員一人一人の努力とか考えとかを考えず数字だけで判断する。 いまだに残業している人間こそがんばっている、と捉えている風習や逆に残業しない人間は終業時間内に集中して仕事をすすめ 残業しないように努力しているというのに、それを感じ取ろうとしない。驚くことにこれが、残業時間を減らせという指示があるにも関わらずなのだ。
上の人間は、社員一人一人に感情と思考があるとなんて思っていないのだ。下の社員どもを、アリんことしか思っていない。
そんな上の人間の下で、社員が会議を休む、というのは大事なことだろうか? 重要と思われる人事異動についての連絡すら社員にしない会社が、一社員が会議を休むことを大したことと捉えているだろうか?
それを社員から事前にいちいち報告せよと言う。 自分らが社員に重要な連絡をしないのに、アリんこ社員が会社に軽微な連絡をしなければならない、と言うのだ。
何が大切なことなのか、本当に分からなくなる。 重要か軽微かのバランスを失った社員は多い。
若手社員の傾向として、報告・連絡・相談するべきか否かの判断を間違える、というのはある。 これは上司が教育していけばいいことである。 簡単に言うと、迷うのなら報告・連絡・相談をすればよく「するべきか否かなど判断する必要がない」という答えになる。
しかし上司側が、部下に対しての報連相を果たさないと、部下はそんな簡単な成長すら出来なくなる。 やって見せるのが教育だが、それどころの話ではない。
何も果たしていないのだ。
教育のされた社員ですら、不良社員に変わってしまう。
反面教師にして成長
会社のやりかたに問題点を見て、反面教師として自分の成長に繋げられるだろうか。 改善すべき点が極一部であればその期待も出来る。
会社側の問題点が多すぎる場合、そのモチベーションすら失ってしまう。 自分の成長に繋げられるとしたら、こうだ。
転職や退職のための成長に繋げるということだ。
自分が成長すれば、それで良い。
そう考えて今後のサラリーマン生活を振る舞うことにしよう。
楽しんでブログをやるんだった。
ど素人がブログを始め2ヶ月が経とうとしている。
近い将来に収益化してやる、と息巻いて始めたがそんなに簡単ではない。 もちろん諦めてはいないがゆっくりやっていこうとそんな気持ちでいる。
ブログを始める前には私にはブログを読むという習慣すらなかった。
始める気になったのはなんとなく過去を思い出したからだ。
自分の文章を笑って読んでくれた人が結構いたな、と。 私はとんでもなく話すのが苦手だが、文章ならいくら時間かけて書いたって読んでる人に不快を与えるわけじゃない。 少しでも楽しんでくれる人がいる可能性があるなら、そして自分が言いたいことがあるなら、と始めてみたわけである。
始めてみた当初は文章を書くのが楽しくて苦に思わず多くの記事を書くことができた。 読みやすさなど考えてもよく分からずとりあえず意図が乗っかりゃいい、ぐらいの文章がほとんどだった。
そしてやはりイマジネーションの低下というのか、ネタを絞り出すのが難しくなる時期がくる。 時間の捻出が難しく雑な記事が増える。 ほかのブロガーさんの記事にしてもそういう感想をよく見る。 みんなそういう時期あるのか、と思いながら、いろんな方のブログを見てあることに気づいた。
みんなブログを楽しんでいると。
ブログが好きで好きでやっている人は記事を見るとその気持ちが本当に伝わってくる気がする。 ネタにつまって産みの苦しみにもがくのも、読む人の立場に立って試行錯誤するのも、評価やコメントやPV数に一喜一憂するのも、 楽しんでいる。
書きたいことを読む人の立場に立って伝わりやすように表現する。 そのために今日は何を取り上げて書こうか考える。 これを毎日やる。
なにが面白いのか分からないけど、いや面白い。
収益化を目指すつもりは変わらないけどこの気持ちも変えたくない。
楽しんでブログをやる。 なんだか簡単なことを忘れそうだった。
単純なことをやっているんでした。
ベビーカーは飛行機に持ち込めるのか?
うちの姉がアクティブでして、子供が小さいうちでも平気でエグめな旅行に行っちゃう人なのです。で私が子供出来たもんですから産後の免疫あるうちに色々行きなよ!と言うんですがどうもそんな気になれません。大変な想像をしてしまうし、難産だったので妻も完全に回復してないし。
みなさんはどうでしょうか。半年も経たない赤ちゃんを連れてどの程度出かけられますか?
交通機関難易度ランキング
一番難易度が低いのが、やはり車での旅行でしょうか。車という逃げ場があることが安心感あります。
その次に電車(新幹線)での旅ですか。ここで既に考えられないぐらいの高難易度なのですが。新幹線の中でデッキに行ったり、ある程度の逃げが効きますから勇気さえあれば踏み出せるかも知れません。
高速バスや飛行機は、最難関な感じがします。逃げの効かなさで言うと高速バスは不可能と言ってもいいぐらい。飛行機は待ち時間の長さと離着陸の赤ちゃんへの負担なんかが心配だし。
でもどちらも記憶をたぐると、小さな赤ちゃんが乗ってるのも思い出されます。調べてみると生後1週間超えてれば赤ちゃんの体としては特に問題視されないと。
ただやはり周囲の迷惑をかけないかと心配してしまうのが初心者パパなんでしょうか。
公共交通機関を使った赤ちゃんとの旅行(里帰りからの帰り)の不安な点を想像してみると疑問が浮かびました。
ベビーカーって飛行機の機内に持ち込めるのか?
通常は、手荷物のように上の棚に入らにいので、答えはNOです。
ん、じゃあ棚に入るベビーカーなら持ち込んで良いのか?
機内に持ち込めるベビーカー
ということで機内に持ち込めるベビーカーをご紹介します。
ポキットという、3つ折りに出来るベビーカーです。
畳んだ時にめちゃ小さい。厚みが18〜19cmになるそうです。飛行機どうこうじゃなくて便利過ぎて欲しいわ。
赤ちゃんを抱っこしながら、畳んだベビーカーをストラップで肩掛けカバンみたいに肩にかけられるようです。19cmの厚みで4.8kgだからそりゃそうか!
これだけ軽量アンドコンパクトだから機能はなんぼのもんやねんと思いますが大丈夫。
日よけもちゃんと大きいのが付いてる。ダブルホイールですべてにサスペンションついてて安定感は申し分なし。
玄関が狭くても畳んでしまえば場所を取らず、なんならストラップでシューズボックスの中に引っ掛けられます。
新生児OKのものも
こっちは畳んで厚み31cmです。
飛行機にベビーカーを載せる意味
別に機内でベビーカーを使えるわけでもないし、降りたあとの荷物出てくるところまでのストロークだけのためにわざわざベビーカーを持ち込むのか?
問題は、ベビーカーは通常預ける荷物とは別のところに預けなければならないということ。
それはそうですよね。スーツケースなどと一緒にベビーカーも預けたら壊れそうです。預けたベビーカーを返してもらってそのあとスーツケースを待って…。これはなるべく省きたい時間と手間です。
機内に持ち込むとすごく楽なのはこういう理由なんですね。
さて、こんなベビーカーがあれば赤ちゃんと一緒の旅行も勇気が湧きます。
さてどこ行こう…。
子供の写真を人に見せる人は自分の子を大して可愛いと思っていないと思うんです。
親バカな男が書いている前提で読んでくださいね。
他の子がかわいそうじゃないですかあ。
誰もが自分の子は世界一かわいいでしょう。私もそう。そして可愛さでは圧倒出来ると思っています。
言い換えると、誰が掛かってきても圧倒してしまうのです。素人のケンカにプロボクサーが参加するのと同じなのです。プロボクサーが素人に手を上げないですよね。強さで圧倒してしまい危険だからです。
人が集まって子供の写真を見せ合いになっている時に、自分の子の写真を見せてしまったら蹴散らすことになってしまって他の人がかわいそうじゃないですか。
つまり人に子供の写真を見せたがる人は大して可愛いと思っていないわけです。
世界一可愛いと思っているんでしょうけど、圧倒的とは思っていないんでしょう。
もし、圧倒しちゃって他の子がかわいそうと思いながら見せてるんならそれは暴力です。
でもそんなあなたにも私の子は見せられません。良い気になっているところに自信を喪失させるようことは見ているこっちも辛いので。
どうしても勝負したいっていうなら、泣いてる写真とか半目の写真とか比較的ブスな瞬間のやつにしますね。本気出しちゃうとシャレにならないので。
子供がが出来てやっと大人になった?
失礼しました。冗談でございます。
親バカがこじれてこんなことを言ってるだけです。
実際は他の方のどんな子でも可愛くて、一緒に遊ぶと楽しいです。男はいつまでも子供なので子供の気持ちが分かる気がして、子守って感じではなく純粋に楽しい。
自分の子ができると他の子も可愛く思えるようになるんですね。みんな人生始まったばかりなのに既に個性的で、本当に不思議。
自分に子供がいない頃は、子供なんて全然可愛いと思わなかったんですが、父親になってやっと自分が大人になったっていう感じです。男は
大人になるの遅いんです。
だから今まで他のうちの子供と接するのを避けてたことは損してたな、とすら思います。
感謝が湧き出る
ところが保育士や教員や助産師などを若い頃から目指す人は、子供を相手にするというレベルの高いことを自分に子供がいない時分から志すってことですから、大尊敬します。そしていつもお世話になっております。感謝です。おかげでうちの子は元気です。
これから色んな人にお世話になって恩恵を受けて人生を歩んでいくんだな。
さあ今日はお風呂で何話そう。
漫才の成長の理由
先日のM-1グランプリについてブログには特に書くつもりはなかったのだが、東洋医学の本を読んでいたら、漫才のことが頭によぎったので記事にしようと思う。
目次
漫才はかつて師弟で繋いできた
かつて漫才は、師匠の下に弟子入りして修行を重ねた末、舞台に出ることが出来た。漫才師を志す者は叩く門を探すことから始まったのだ。
先日の審査員席にはその点、師弟関係を結ぶ形で業界に入った人とそうでない人とがいる。オール巨人と上沼恵美子と塙と立川志らくはそれぞれ誰かしらの弟子入り、それ以外は師匠はいない。
師匠がいない芸人といる芸人
師匠について入門する、ということにより漫才師デビューするという通例を大きく崩したのがダウンタウンと言われる。それはNSC1期生でその中でずばぬけて売れたからダウンタウンだけ言われるのであって、同期のトミーズやハイヒールも同じことなはずだが。
弟子は師匠について芸の教えを乞うわけだが、それによって師匠の芸に近づいていく。元祖の代から長らく続く芸の流れを弟子は汲んで行くのだ。
一方で師匠のいない芸人は、明確に師匠を立てていないだけで、それぞれ強く影響を受けている先輩芸人を、複数持っている。そして自分の出来ることと、分析したことと合わせて自分の芸にしていく。
誰かに直接師事していないだけで、自分の信じる芸の流れは汲んでいるのだ。
しかし、師匠のいる弟子もこれは同じなのだ。師匠だけが自分に影響を与えるわけではなく、同じ一門の師匠や兄弟子、全く違う一門の師匠、後輩にだって影響を受けるかもしれないし、引いては落語家やタレントや小説家からも吸収することがあるはずだ。
事実、塙は師匠についていながらダウンタウンの影響を色濃く受けていると言っているし、松本人志は師匠はいないながら紳助竜介の影響で漫才を始めている。
つまり師匠がいるかいないかで、自分の芸が決まるわけではないということだ。
漫才のことを考えるキッカケになった中国医学のこと
中国医学では、内臓の位置や形など把握していたが、書物として残していなかった。
誰もが見える形で残さず、弟子に口伝てで伝えられてきた知識や思想は、その連綿と繋げられた記憶の中にしかない。極一部の人間しか知り得ない体の中の五臓六腑のことなどは秘伝として、世間に広まることはなかった。
同じ起こりで、かつ同じ目的を持った活動でも、この伝えられる知識のたすきの違いによって、考え方が変わるのはこのためで、これが流派の別れになる。
これについては、茶の湯や伝統的な武道の多くや落語、漫才などはイメージしやすいだろうし、同じ宗教の中の宗派が別れるのもこのためだ。
流派は、秘伝を持っている人間が極一部であること、書物などでは伝えられてこない知識が生み出している。
この流派を、もっと日常に落とし込んでみる
会社の中や政治家の世界などで◯◯派、△△派など人名に派と付けて、同じ派の所属同士で思想の傾向を合わせるようなことがある。これは派閥という言い方をよくする。これも、該当する派閥の中で何か通達や明確な情報共有があるわけでもなく、思想は口伝てに近い形で伝えられる。しかも派閥は個人がそれに加わるのに手続きなどないし、強制力も統率する力もあるわけでなく、定義は曖昧である。
この曖昧な分子間力のような力で引き寄せられた人たちによって長い年月に渡りその知識と思想が受け継がれ、流派となるのだ。
であるから流派は年月の流れの中で当然分岐するわけである。
流派は思想の引力である
今の情報化社会の中でも、この流派は発生するのだろうか。
思想がそれぞれの頭の中で発生し、それが相似であると感じて寄せ集まったのが流派であるから、知識や思想が文字に起こされた形で伝えられたとしても、流派という見えない力で人が集まることは出来る。人が集まると思想の伝達は太いものとなり、秘伝の価値も上がる。
人が寄せ集まりやすい情報化社会だからこそ流派は起こりやすいかも知れない。
情報化社会での漫才師
漫才の一門も特別な拘束力のない流派である。漫才の極意をテキストに載せて弟子に授けるはずもなく、弟子が吸収する形で受け継がれるものであろう。秘伝は形に残らないが、代々の弟子を媒介としてウイルスのように伝えられるのだ。
そして、既述の通り、師匠についていない芸人もどこかしらの流派と言える。
いや、どちらの場合も複数の流派を合わせた独自のものであるから、自分が元祖となる流派を作ったことにもなる。
その中で強く影響を及ぼす者が居れば、後に続く芸人が流派を自然と受け継ぐことになる。これは情報化社会の中でより起こりやすい現象であろう。
流派がごちゃ混ぜだからこその多様性で、レベルが天井知らず
元祖の師匠を同一とする師弟系統を一門という言い方をする。門の中に入っているという表現をするのだ。なぜ閉ざされた門の中に入ろうとするのか。ある特定の師匠に傾倒していて自分が彼に近づきたいからだろう。それなら入門する意味は大きい。
逆に、門の中に目的の人が居ないと入る必要はない。入らなくても漫才は出来るからだ。
一門に入らないメリットはダウンタウン以降の師匠のいない漫才師・芸人の多様性と実力の高さを見れば明らかでは無いだろうか。
受けた影響を自由にミックスし、自己の個性を活かして芸人活動出来ること、さらにそんな芸人が周りにたくさんいる中で切磋琢磨されたお笑いは相乗効果的に成長し、とどまるところを知らない。
最後に
- 中国医学にしても漫才にしても、形をもたないから流派は生まれ、分岐し混合する。
- 芸は無形で伝わり、正解を導き出すことを許さない。
- だからこそ、成長は天井を知らない。
賞レースで負けても不正解では決してない、
ということも付け加えさせていただく。