大統領夫人は政権に関係ないのに何故メディアにあんなにも露出するの?
日本の首相夫人に比べよく露出している。
脚の話ではない。なぜメディアに登場する必要があるのだろうか。さらに頻繁に公衆の面前で演説のようなことまでしている。
日本では首相の夫人がそんなことをするなど考えられない。首相夫人が公衆の前に出てくるのはアメリカ大統領や外務大臣その他と会う機会において相手の出方に合わせるためであろう。
なぜアメリカ大統領の夫人はメディアに露出するのが普通なのか。
政治も民族学も全く詳しくないが、考えてみたい。
日本と西洋と幼いころからの男女観や個人観を考えてみる
日本人が、個人でつながることの希少さ
人間対人間が、場でつながるか個人と個人でつながるかというのが幼少の頃から違うように思う。
日本では仲良し5人組!のように人の集団をカテゴライズする。誰かがこの5人以外何人か加えて一緒に行動しようというのは勝手にはしにくいのだ。集団の中の自分を大切にするため、個々の大事な人であってもその集団にはカテゴライズされない。さらに日本には同期とか同窓とかそういう同カテゴリを大切なものとして扱う節がある。同期であるだけでそこに心のつながりが薄くても相手を大切に思ってしまう。
仲良し5人組の中の一人が、他の仲間と面識のない彼女をつれてきたら日本人の正直な気持ちはどうだろうか。なんだこいつの大陸的発想は!?と敬遠してしまうかも知れない。
こういうことから、日本の感覚での人の評価の仕方は個人に対するものから外れる
パーティーの場での違い
パーティーで、西洋はカップルであることを重要視する。そのパートナーがその宴の場において面識があるかどうかは全く関係がない。そのパーティーの場に対するカテゴリ意識が薄く個人の集まりという捉え方である。
日本は全体の場になじもうとする。男同志の友達でくる場合も多い。パーティーの場がどういう位置付けかを考えて、誰と行動を共にするかを決める。なんなら配偶者を連れて行くかどうかを他の参加者に事前に打ち合わせたりすることすらある。場の調和を重視しそこから外れることを嫌うので、行動基準の付き合わせは欠かせない。
西洋は組織としての調和よりカップルであることの方が重要なのだ。
個人として扱う。所属として振る舞う。
だから西洋では個人の所有するものが組織に必要かどうかではなく、含めて個人そのものとして扱う習慣があるのではないだろうか。
まとめ
個人をその所有する家族も含めて評価する西洋の習慣のため、政権とは関係ないとはいえ大統領と密接な妻は露出するのが普通であり、むしろ求められる、と考えられる。