被害者意識の強い人が損していること
悲観的というか被害者意識というか、自分だけが損をするという感情を持つ傾向がある人がいる。
意識を被害者側に置くかその外側に置くか2パターンある
損か得か運が悪いか良いかは、確率的にはさほど変わらないはずだが、そう発想する人は周りからもあいつは運が悪い、と見られがちだ。
一方で自分だけが損だという発言は一切口から出てこない人もいる。これが私なのだが、どうしても悲観的になれないのだ。自分だけが被害者と思えないのだ。
後者(以下Bタイプとする)はすべてのことは自己責任だと思っている人間である。突き詰めて考えると他人に責任を置いたり自分が100%被害者という結論にはどうやったって至らない。こういう論者なのである。
各タイプの振る舞いの違いはこう
例えば自分が乗った電車が突然の落雷の影響で停電し発車できない状態になったとする。
自己責任タイプの発想
Bタイプの人間はこうである。
みんな不便な思いをしているんだから我慢しよう、という発想になる。自分だけが被害にあったという捉え方をしない。みんなが等しく被害者であるという意識であり、その中心に自分を置こうとしない。この被害には会わず無事に帰れた人もいるが、その被害者の中に自分がいたことは何の意味も持たない。そもそも電車という交通機関を使ってる以上こういうことはあり得る。これが嫌なら他の交通機関を使えばいいことである。たかが数百円の運賃しか払っていないというのにガタガタいう気になれない。駅員さんはこんな大変な時にクレームを言ってくる客への対応は本当に大変だけどご苦労さまです。
被害者意識タイプの発想
一方前者(以下Aタイプ)は、なぜ今なんだ。なぜ俺のときなんだ。という発想になる。被害に遭わず帰れた人がいるのに不公平だ。移動するための数百円を払っているのに移動出来ないなんて債務不履行だ。あの駅員に何時に復旧するか聞きに行こう。そして電車見合わせなう的な被害者意識ツイートをする。
影響は数千人に及び本当に必要な対応に追われている駅員に対し、自分の都合で手を止めさせることが平気で出来るタイプだ。
ちょっと(かなり)個人的感情が滲んでしまったが、AタイプとBタイプは抱く感情が明確に違う。
現象に対して捉え方が違う、というのは以下の記事でも面白い事例を挙げている。
被害者意識の強い人が損していること
加害者は自分
事象を事象として捉えるか自分の被害と捉えるかは自分次第なわけだから、言い換えれば自分が自分に加害しているわけである。
人のせいにしがち
事象を被害者側として捉えてしまうので、自分の非を真っ先に考えることが出来ない。相手の非を探し、相手のせいにしてしまう。これは信用を失う行動である。
隣の芝生が青く見えてしまう
被害者意識は妬みの気持ちにも現れる。妬みは物事をフラットに見ることが出来なくなる原因で、さらに自己肯定感が薄れることにより精神的苦痛に変わる。
他人から軽視される
自分を被害者として自覚して物事を話すため、周りの人からは被害者の側面を多く持った人だと思われる。つまり運が悪い人間だとか失敗の多い人間だと思われ、価値が低く見られる。
最後に
すべてのことは信用を失う原因を作る。気づかない内に自分の出世を妨げるのだ。
人のふり見て我がふり直さなければれならない。自分のことだと思って行動を見直そうと思う(とすら被害者意識サイドは思わないのだろうな)。