katakuruの日記

しゃべり下手のおじさんが、太らない習慣を手に入れた方法を干からびるまで絞り出します。たまに育児を筆頭にした雑感も愛を持って書きます。

漫才の成長の理由

先日のM-1グランプリについてブログには特に書くつもりはなかったのだが、東洋医学の本を読んでいたら、漫才のことが頭によぎったので記事にしようと思う。

目次

 

 


漫才はかつて師弟で繋いできた

 

かつて漫才は、師匠の下に弟子入りして修行を重ねた末、舞台に出ることが出来た。漫才師を志す者は叩く門を探すことから始まったのだ。

 


先日の審査員席にはその点、師弟関係を結ぶ形で業界に入った人とそうでない人とがいる。オール巨人と上沼恵美子と塙と立川志らくはそれぞれ誰かしらの弟子入り、それ以外は師匠はいない。

 

 

 

師匠がいない芸人といる芸人

 

師匠について入門する、ということにより漫才師デビューするという通例を大きく崩したのがダウンタウンと言われる。それはNSC1期生でその中でずばぬけて売れたからダウンタウンだけ言われるのであって、同期のトミーズやハイヒールも同じことなはずだが。

弟子は師匠について芸の教えを乞うわけだが、それによって師匠の芸に近づいていく。元祖の代から長らく続く芸の流れを弟子は汲んで行くのだ。

 


一方で師匠のいない芸人は、明確に師匠を立てていないだけで、それぞれ強く影響を受けている先輩芸人を、複数持っている。そして自分の出来ることと、分析したことと合わせて自分の芸にしていく。

誰かに直接師事していないだけで、自分の信じる芸の流れは汲んでいるのだ。

 


しかし、師匠のいる弟子もこれは同じなのだ。師匠だけが自分に影響を与えるわけではなく、同じ一門の師匠や兄弟子、全く違う一門の師匠、後輩にだって影響を受けるかもしれないし、引いては落語家やタレントや小説家からも吸収することがあるはずだ。

事実、塙は師匠についていながらダウンタウンの影響を色濃く受けていると言っているし、松本人志は師匠はいないながら紳助竜介の影響で漫才を始めている。

 


つまり師匠がいるかいないかで、自分の芸が決まるわけではないということだ。

 

 

漫才師イラスト

 

漫才のことを考えるキッカケになった中国医学のこと

 

中国医学では、内臓の位置や形など把握していたが、書物として残していなかった。

誰もが見える形で残さず、弟子に口伝てで伝えられてきた知識や思想は、その連綿と繋げられた記憶の中にしかない。極一部の人間しか知り得ない体の中の五臓六腑のことなどは秘伝として、世間に広まることはなかった。

 


同じ起こりで、かつ同じ目的を持った活動でも、この伝えられる知識のたすきの違いによって、考え方が変わるのはこのためで、これが流派の別れになる。

これについては、茶の湯や伝統的な武道の多くや落語、漫才などはイメージしやすいだろうし、同じ宗教の中の宗派が別れるのもこのためだ。

 


流派は、秘伝を持っている人間が極一部であること、書物などでは伝えられてこない知識が生み出している。

 

 

この流派を、もっと日常に落とし込んでみる

 

会社の中や政治家の世界などで◯◯派、△△派など人名に派と付けて、同じ派の所属同士で思想の傾向を合わせるようなことがある。これは派閥という言い方をよくする。これも、該当する派閥の中で何か通達や明確な情報共有があるわけでもなく、思想は口伝てに近い形で伝えられる。しかも派閥は個人がそれに加わるのに手続きなどないし、強制力も統率する力もあるわけでなく、定義は曖昧である。

この曖昧な分子間力のような力で引き寄せられた人たちによって長い年月に渡りその知識と思想が受け継がれ、流派となるのだ。

 


であるから流派は年月の流れの中で当然分岐するわけである。

 

古文書イラスト

 

流派は思想の引力である

 

今の情報化社会の中でも、この流派は発生するのだろうか。

思想がそれぞれの頭の中で発生し、それが相似であると感じて寄せ集まったのが流派であるから、知識や思想が文字に起こされた形で伝えられたとしても、流派という見えない力で人が集まることは出来る。人が集まると思想の伝達は太いものとなり、秘伝の価値も上がる。

人が寄せ集まりやすい情報化社会だからこそ流派は起こりやすいかも知れない。

 

 

情報化社会での漫才師

 

漫才の一門も特別な拘束力のない流派である。漫才の極意をテキストに載せて弟子に授けるはずもなく、弟子が吸収する形で受け継がれるものであろう。秘伝は形に残らないが、代々の弟子を媒介としてウイルスのように伝えられるのだ。

そして、既述の通り、師匠についていない芸人もどこかしらの流派と言える。

 


いや、どちらの場合も複数の流派を合わせた独自のものであるから、自分が元祖となる流派を作ったことにもなる。

 


その中で強く影響を及ぼす者が居れば、後に続く芸人が流派を自然と受け継ぐことになる。これは情報化社会の中でより起こりやすい現象であろう。

 

芸人イラスト

流派がごちゃ混ぜだからこその多様性で、レベルが天井知らず

 


元祖の師匠を同一とする師弟系統を一門という言い方をする。門の中に入っているという表現をするのだ。なぜ閉ざされた門の中に入ろうとするのか。ある特定の師匠に傾倒していて自分が彼に近づきたいからだろう。それなら入門する意味は大きい。

逆に、門の中に目的の人が居ないと入る必要はない。入らなくても漫才は出来るからだ。

 


一門に入らないメリットはダウンタウン以降の師匠のいない漫才師・芸人の多様性と実力の高さを見れば明らかでは無いだろうか。

 


受けた影響を自由にミックスし、自己の個性を活かして芸人活動出来ること、さらにそんな芸人が周りにたくさんいる中で切磋琢磨されたお笑いは相乗効果的に成長し、とどまるところを知らない。

 

 

 

最後に

  • 中国医学にしても漫才にしても、形をもたないから流派は生まれ、分岐し混合する。
  • 芸は無形で伝わり、正解を導き出すことを許さない。
  • だからこそ、成長は天井を知らない。

 

賞レースで負けても不正解では決してない、

ということも付け加えさせていただく。

 

  

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